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<無形民俗文化財公開情報>
<名 称> 脇野の大念仏(わきののだいねんぶつ)
<種 別> 佐賀県指定無形民俗文化財
<公 開 日> 毎年8月21日
宝積寺で脇野の大念仏公開
毎年12月1日
山ン寺例祭の中で、脇野の大念仏と久原の大念仏が1年ごとに交代で公開
<公開場所> 宝積寺(佐賀県伊万里市東山代町脇野)の境内
山ン寺(佐賀県伊万里市東山代町久原)
<時 間> 19:00ごろから
<駐 車 場> 脇野公民館(宝積寺すぐ下)に30台ほど可能
<ト イ レ> 脇野公民館にある
<問合せ先> 伊万里市 生涯学習課 TEL 0955-23-3186
(注意)公開場所や日時は保存会の都合で変更になる場合があります
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<NIA取材記>
撮影は、2019年8月21日に行った
午後3時ごろ現場につき、脇野公民館の駐車場に取材車両を入れた。
寺総代や保存会会長に撮影の許可をいただいて取材を開始した。
外景の撮影、脇野の大念仏の内容の取材を終えたらやることがなくなったので
取材車の中で開始まで休息する。
午後6時ごろから人が集まりだした。大念仏を演ずる人々も準備に入る。
目につくのは白装束の鼓役である。鼓役は直径120cmほどの幌笠をかぶる。
昔は、その幌笠にお賽銭を投げ入れていたというが、今は見られない。
午後7時ごろ、薄闇の中で大念仏が始まった。
動きが緩やかで、全員が白装束のいでたちは、闇夜に映えて幻想的であった。
その、雰囲気を壊さないように、ビデオライトは、最低限の光量に抑えて撮影を行った。
記述 2019.8 池松卓成 |
<脇野の大念仏の内容説明>
、旧山代郷(東山代町・山代町)に伝わっている「大念仏」は、900年変わらない原形を留めている秘宝念仏である。
「大念仏」は、昭和14年(1939)には、旧山代郷(東山代町・山代町)の八地区で行われていた。
現在は、東山代町の「脇野の大念仏」と「久原の大念仏」とだけが伝えられており、脇野が佐賀県指定無形民俗文化財となっている。
「大念仏」は、念仏を唱えながら太鼓や鉦(かね)を打ち鳴らして舞う芸能で、「念仏踊り」に分類される。
「念仏踊り」のもとになった「踊り念仏」は、平安時代に空也上人が京都の壬生寺で念仏を広めるために
宗教儀礼として踊ったのが始まりとされている。
その後、鎌倉時代に一遍上人が行った「踊り念仏」は全国に急速に広まった。
「踊り念仏」が人びとの娯楽のために行われたり、衣装が派手になったりしたものが出雲阿国で有名な「念仏踊り」である。
起源は信仰行事として始まっている。農作物の不作や干ばつは悪霊の祟りと考え、
これらの悪霊を一掃するという事が基本にあって、後に雨乞いを祈願するために奉納していたものである。
旧山代郷(東山代町・山代町)の大念仏は、大干ばつの際に雨乞いの最後の手段として、東山代町里地区の青幡神社に奉納されてきた。
中世の松浦党にゆかりの芸能ともいわれているが、
その最も古い記録は、天和(てんな)四年(1684)七月七日『小城藩日記』「雨乞料」の記事だとされている。
旧山代郷の大念仏は、白装束の鼓役(つつみやく)4人と鉦役(かねやく)4人が交互に円陣を組み八周する。
中央に幌竹(ほろだけ)と幟(のぼり)を立て、数人の笛役と古老がつく。
鼓役は直径120センチメートルあまりの幌笠(ほろがさ)をかぶる。
1周目は、一歩二踏みずつ行進する、静かな所作で始まる。
これを「御霊迎え」の所作という。
次第に所作が大きくなり、5周目に念仏を唱え、御霊を供養し同化させ祈願する所作をする。
7周目には「チョーリーライ」の笛が入り、8周目には、「マクリ」の笛で急調子となり激しく左転、右転する。
これは「舞踊り」と呼ばれ、「御霊送り」の所作という。
その間は鉦や太鼓も打ち続けられて踊りを終える。
他県の念仏踊りの多くは、娯楽化が進み、衣装も華美になっていることが多いが、
旧山代郷の大念仏は衣装や手の舞、足の踏みなどに厳格なきまりが残っている。
宗教儀礼であった踊り念仏が芸能化した直後の姿をよく残していると考えられる点や、
県内でも旧山代郷だけでしか行われていない点が貴重である。
精霊送りの大念仏は各所にあるが、不作や干ばつは悪霊払い、雨乞いが結びついたものは
全国に脇野の大念仏ただ1つである。
「脇野の大念仏」は、毎年、8月21日の夜に脇野地区の宝積寺(ほうしゃくじ)で公演されている。
「久原の大念仏」は佐賀県伊万里市久原(くばら)地区に伝わっている念仏踊りで伊万里市指定無形民俗文化財である。
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