<無形民俗文化財公開情報>

<名   称> 宿の鉦浮立(しゅくのかねふりゅう)

<種   別> 鳥栖市指定無形民俗文化財

<公 開 日> 毎年4月29日

<公開場所> 舩底神社(佐賀県鳥栖市宿町1266)で浮立奉納、文化会館~舩底神社には道ばやしあり

<時   間> 文化会館出発(9:00)⇒鳥栖市役所で浮立(10:00)⇒舩底神社で浮立奉納(11:50)

<駐 車 場> 宿町公民館に15台程度、近くに大手スーパーあり

<ト イ レ> 宿町公民館

<問合せ先> 鳥栖市教育委員会事務局 生涯学習課 文化財係  TEL 0942-85-3695

(注意)公開場所や日時は保存会の都合で変更になる場合があります 
  


    <NIA取材記>

2018年4月29日に取材を行った。

5年ほど前に撮影したので今回二回目の撮影である。

前回は宿公民館に駐車したが、今回は遅く行ったので神社周辺は交通規制がかかってい て、

中に入れなかった。幸運にも神社近くにスーパーがあり、そこの駐車場に駐車させてもらった。

鉦浮立の演舞は以下の通りである。

1)差し: 鉦を腕一杯に頭上に上げることで、「コレハイサ」の掛け声で3回差して打つ

2)廻り: 鉦打ちは鉦を抱えて廻って、打ち手の位置が代わり、2回鉦を差す

3)送り: 鉦を抱えて横に移動し、1回鉦を差す

4)チャンポン:2列に並ぶ鉦打ちが交互に鉦を4回差して打つ

5)リヨリヨ: 鉦打ち、鉦下げ全員で大きな円になり、終い鉦連打で奉納終了

バチ(木槌)は800本ほど用意するそうであるが、これで鉦にひびが入るほど強く打つので、

すべてが使えなくなる。最後は20本のバチが空高く投げ上げられて奉納は終わる。

このバチは、誰でももらって帰ることができ、人々は奪い合って取りあいお守りとする。
                                            
2018年.5.月 池松卓成  記述
  
 <宿の鉦浮立の内容説明>

日本武尊が熊襲を征伐した折、この地に留まれた。

それが縁となり662年養父郡に四阿屋宮が創建され、

この宮の御神幸で神輿が本宮に戻ると牛原、宿、養父、倉上の4つの 村々が芸能を奉納した。

牛原は獅子舞、宿は鉦浮立、養父ははぐま行列、倉上は御田舞。

現在は、牛原の獅子舞は4月2日に香椎宮と四阿屋宮で、宿の鉦浮立は4月29日に船底宮で、倉上の御田舞は10月20日ごろ老松宮で奉納している

宿の鉦浮立は、鉦と大太鼓を主体にした浮立で五穀豊穣と無病息災を祈願する民俗芸能である。

以前は「横笛」と「ムラシ(締太鼓)」もあり「鉦」は12個使用した構成で、 芸態は江戸時代に整えられた。

現在は4月29日、船底宮に奉納され鳥栖市指定無形民俗文化財と なっている。

浮立に使用される楽器は「鉦」10個と「大太鼓」1基である。

4月初めから練習を続けてきた子どもや住民ら約200人が、

のぼり旗を先頭に文化会館から船底宮までは行列を組み、鉦で「道ばやし」を奏し、地元の小学生多数が踊る 「道行き」 を行い練り歩く。

神社到着後、境内で2列に並んだ10人の鉦打ちが一定の所作で約10kgもの鉦を頭上に上げ下げしながら、打ち鳴らす勇壮な舞、

それに太鼓打ちが鉦打ちと鉦打ちの間に「返 り(側転)」して入っていく動作は見どころである。

鉦浮立の構成は以下のとおりである。

払い:1名 (旗を持って先導する)

鉦小頭:2名 (紋付を着用 )

鉦打ち:10名(紺の着物にたすき(黄)・手甲・白股引・脚絆・黒足袋を着用し、草履を履く )

鉦下げ:10名(「道行き」の際に鉦打ちと2人で鉦を下げて打つ。衣装は鉦打ちと同様だが、たすきを使用しない )

太鼓小頭:2名 (法被を着用する )

大太鼓::2名(少年、日晴れ着物のような上着・たっつけ袴・飾り付きの手甲・青い色布の鉢巻を着用し、背中に「ボンデン(色紙を束ねた飾り)を着ける)

お謠:若干名(法被を着用し、入場後にお謡いの一節「高砂」「猩々」を、演技の最後には「老松」を謡う )


「高砂」⇒四海波静かにて 国も治まる時津風 枝を鳴らさぬ御代なれや 相に相生の 松こそめでたかりけれ

げにや仰ぎても 事も愚かやかかる世に 住める民とて豊かなる 君の恵みぞ ありがたき 君の恵みぞ ありがたき

「猩々」⇒老いせぬや 老いせぬや 薬の名をも菊の水 盃も浮かみ出でて 友に逢うぞ嬉しき 嬉しきかなやいざさらば

嬉しきかなやいざさらば 此の松影に旅いして 風もうそぶくとらの時 神のつげをもまちてみん 神のつげをもまちてみん

  「老松」⇒嬉しきかなやいざさらば 嬉しきかなやいざさらば この松蔭に旅居(たびい)して 風も嘯(うそむ)く寅の刻

神の告をも 待ちて見ん 神の告をも待ちて見ん


1943年3月21日の軍部への強制供出を密かに逃れ、1855年(安政2年)に造られた「拾一番」の鉦が今日まで残されている。

(重さ10㎏超)「安政二年卯二月」と「田村 宿村」の銘がある。

昭和17年(1942)、成年男子は戦争に駆り出され、鉦浮立ができなくなり、行列のみ四阿屋宮・神幸祭に参加

昭和18年(1943)、浮立鉦10個を軍部へ強制供出 。鉦を叩き行列をつくり鳥栖駅前広場に持って行き、喚声を揚げて別れを惜しみ地方事務所に納める

昭和18年(1943)、牛原、養父、宿、蔵上の4ヶ村による四阿屋宮神幸祭は中止となる

昭和29年(1954)、鳥栖市制施行(2町3村合併)12年ぶりに4町とも再開。村田町から鉦10個を借用して参加

昭和35年(1960)、四阿屋宮の御幸祭は社会情勢の変化により中断。

平成元年(1989) 、昭和39年に中断した浮立が復活 。船底宮境内で、鉦・太鼓・踊りの道囃子だけを実施、衣装を披露する。

平成2年(1990) 、鉦差し浮立30年ぶりに復活、町区内の行列、船底宮境内で奉納、

以後、毎年開催 。伝承行事の承継者育成。

平成3年(1991) 、筑後川フェスティバル91に出演する(石橋文化ホール)

平成3年(1995) 、佐賀県伝承芸能祭に出演(唐津神社境内)

平成9年(1997)、鳥栖市無形民俗文化財に指定された 。