<無形民俗文化財公開情報>

<名   称> 北野天満神社神幸行事(きたのてんまんじんじゃじんこうぎょうじ)

<種   別> 福岡県指定無形民俗文化財

<公 開 日> 毎年10月第3日曜日

<公開場所> 北野天満神社(福岡県久留米市北野町中3267)の境内及び下宮

<時   間>

8:30~ 本年の行事宅での神事(飾り馬)

9:00~ 本殿での神事、4つの奴隊の演技

10:00~ 風流奉納

11:00~ 行列本宮出発(お下り)

12:30~ 御昼間殿(十郎丸公民館横)での御輿休め

13:30~ 下宮での神事、風流奉納

15:40~ 本宮着(お上り)

<駐 車 場> 神社の駐車場は公用車用。神社横の北野複合施設に無料駐車場がある

 <ト イ レ> 北野天満神社にある

<問合せ先> 久留米市文化観光部文化財保護課  TEL 0942-30-9225
 
(注意)公開場所や日時は保存会の都合で変更になる場合があります 






   
<NIA取材記>


北野天満神社神幸際の本番撮影は2010年10月17日に行った。

 2010年9月中旬から注連縄作り、4地域の奴隊の練習、風流の練習、神輿上げ、

馬飾りの制作、花笠の制作、衣塚の撮影、本番撮影と撮影収録総時間は9時間にもなった。

また、保存会の撮影隊4名の皆様のビデオ収録時間も合計20時間にもなった。

撮影回数が多かったせいか、北野天満宮関係者や保存会の皆様と接する機会が多く、

いろんな話を聞けたのは幸いであった。

先ず風流である。神奈川から福岡にNPO事務所を移転して、風流なるものを初めて撮影した。

最初は草野風流、次に御井町風流、そして ここ北野風流である。

風流とは、華やかなもの、着飾ったものなどの意味がある。

赤い赫熊を頭に被り演ずる様は昔の人にとっては華やかではある。

御井町風流もかってはそうだっただろうが、稚児たちの華やかさは北野が一番であろう。

そもそも風流はここ北野の 中村から興り、各地に伝播したものらしい。

伝播した地で少しずつ舞の形が変わり今日の各地の風流となった。

「道行」「神の前」「巻 龍」の3つが演じられているが「カッパ、月にうかれて」というのもあったらしい。

是非とも再興し、演じていただきたいと思う。

次に奴隊である。

4隊とも練習時の撮影は、午後9時ごろの薄暗い屋外であったので、

祭礼当日は、どこの隊の誰かの判別が難しか った。おまけに顔に隈化粧もしているからなお更である。

化粧は各自が鏡をみてやるそうで、雛形も何もないそうである。

できるだけ怖そうにするのがコツのようであった。

「ふり」を行った後は、一斉に子供に突進する。

そして、大声を上げて怖がらせ、子供を泣かせるのも役割の1つであるようだ。

泣くほど強くなると言われ、母親も子供を特にかばったりはしない。

なかには、何度やっても泣かない子供もいて、奴との根気比べに笑いの声も上がっていた。

最後に「行事」である。本年は6歳の男児がこれを務めた。

家の前では「お謡い3番」があがり、三つ重ねの「杯ごと」も行われた。

奴隊の祝 い歌もあり、赤い木製の飾り馬に乗って神社へとむかった。

神社の馬止めからは、大人の肩車で境内をすすむ。

昔は、 途中の露店に「行事」が気に入ったものがあれば、

どんなに高価なものでも、露天商は差し上げるのが決まりとなっていたそうである。

「行事」は殿様の代参なのですからね。ついでにもう少し。

「行事」を出した家は、田んぼを売らなくてはならないほど負担が大きかったという。

なにしろ、布団、座布団、着物、馬方さんの着物など、全てを新調しなければならなく、

振る舞い酒や料理は最高なものが3日間にわたって出され、ご祝儀もはずまなくてはならなかったという。

現在はだいぶん簡素化されてはいるが、負担は大きいだろう。

裏話もたくさん聞いたが、ここに書ける内容ではないので省略させていただく。

    2010年10月  池松 卓成 記す
  
 <北野天満神社神幸行事の内容説明>

 北野天満神社では毎年数多くの祭礼が催されている。なかでも神幸祭(おくんち)は最も盛大な祭礼である。

昔から「北野ぐんち」と称され筑後一円からの参拝者で賑わう。

祭礼には風流が奉納され、御神輿の行列や大名行列が町筋を通り、沿道は人の波で埋まる。

さて、風流の起こりについては諸説があるが、次のような話がある。

醍醐天皇の御世、時の左大臣藤原時平の讒言によって、右大臣であった菅原道真公は京都を追われ、九州の太宰の権師に左遷され た。

藤原時平は菅原道真公を暗殺するため追っ手を差し向けた。追っ手を逃れ、海路大宰府に向かう途中、暴風雨にあって船は難破し、

漁船に助けられやっとの思いで椎田に上がり、中津から日田に抜け、ここから筑後川を小船で下り北野の岸辺に着いたとき、追っ手に襲われた。

そのときカッパの頭「三千坊」があらわれ道真公を助けて戦ってくれた。道真公は無事であったが、「三千坊」は片腕を切り落とされ落命した。

道真公は、この地に手厚く葬り旅を続けられた。

その後、北野天満宮の御神幸祭には、道真公をお慰めするとともにカッパへの感謝の意味で「かっぱ風流」を奉納している。

カッパの手は、北野天満宮の宝物として大切に保管(非公開)されている。

風流の奉納は、拝殿に向かい楼門の下で行われる。3人の風流士は赤い赫熊を被り、「道行」「神の前」「巻龍」を演じる。

華を添える のは12名の稚児達で、大小の鉦や鼓を叩き、大人たちのしの笛も加わって厳粛荘厳に行われる。

「神の前」の途中で、烏帽子水干姿の稚児が次のような向上を述べる。

「東西東西 御静まり候らえ 御静まり候らえ そもそも筑後国河北荘千代の中村より出たる風流と申して 

よりもて興ずるは 当社天満宮のお祭りより事起り されども中頃おとたえて 相続するものなかりしかば 村人ども集りて 

すたれたるを起こし  すたれたるをついで 遠時昔の形ばかりなる しらゆうの袖を返し 進上謹み奉る 音楽の皆々はやし候らえ 御はやされ候らえ」

この口上によって、筑後一円で演ぜられている「風流」が、北野天満宮のお祭りから起こった証とされている。

御神輿のお下りは、次のような順に並ぶ。 風流→ぱったり子→行事→行列→御神輿→宮司 全て男性で総勢二百余人

順に説明を行う。

「風流」については先に書いた通りであるが、風流士が被る赤い赫熊(しゃぐま)の頂には金属製の突起があり、カッパ の皿を表すという。

要するに風流士はカッパの化身なのである。「神の前」の途中で稚児が口上をのべ、最後に風流士の頭を叩く。

これは、カッパに人への忠誠心を誓わせるものであると考えられる。

風流士は青年男子3名が勤める。笛は大人6名、大鉦は稚児6名、小鉦や鼓を打つ花笠の稚児12名ほど、その他6名ほどの大人で構成されている。

花笠の稚児は、女の子の晴れ着を身に着けているが全て男児で、背中にはそれぞれの家の美しい絵が下げられている。

「ぱったり子」とは弓持ち、鉄砲持ちの総勢30名ほどの稚児たちである。

弓はそのままの形であるが、鉄砲は1mほどの棒状の物を赤袋に入れて担ぐ 。

「行事」は行列の主役である。昔は大行事、小行事、幣指(へいさし)の5~6歳の6人の男児(二集落から3人ずつ)が、

祭りの前日に 父親に伴われて、神域の精進屋入りを行い精進潔斎をして祭りに臨んだ。

行事は藩政時代に藩主有馬家の代参者が神様に随行し たものであって権威があり名誉なことでもあった。

大行事は立烏帽子・白衣・緋袴姿でお飾りした生き馬にまたがる。小行事は、大行事 と同じ服装であるが大人の肩車に乗る。

しかし、現在では大行事・小行事の区別はなく、5~6歳のたった一人の男児が行事としてこ の役を務め、

赤い木製の飾り馬にまたがって、お汐井筒で道中を清めながら馬方さんに引かれて行く。

また、幣指もなくなり、御幣さ んの馬(赤い木製の飾り馬)に御幣が乗せられ引かれていく。

「行列」は「行事」のお供をするもので、神紋入りのはさみ箱(2個、2名)、傘(1本、2名)、け槍(2本、2名)の計6名の若者が奴隊一 組を作る。

十郎丸地区、陣屋地区、中村地区、下今山・江口地区から各1隊、合計4隊の奴隊が行列を盛り上げる。

これらを指導するのが、有名な北野の三日士(みっかさむらい)で、祭礼の三日間だけ大小を差すのを許され、行列の警備に当たった。

藩政時代は、何の理由もなく行列を横切る者を、藩主代参の行事行列をないがしろにした罪で切捨御免にすることさえ許されていたのであった。

「御神輿」は、現在は台車に乗せられてすすむ。途中の神輿休所では、参拝者は「御神輿くぐり」をする。

御神輿の下を通る(くぐる)と子供が丈夫に育つといわれ家族での参拝が多い。

奴隊は踊り(ふり)ながらすすむ。ひとふりごとに大声を上げながら子供たちを驚かせ る。子供たちが泣けば泣くほど丈夫に育つとされる。

十郎丸公民館横の御昼間殿(道真公が昼食をとられた所)での御輿休め、下宮でのお旅所でのしばしの休憩の後、本宮に向け御神輿はお上りなされる。                                            
北野誌一部抜粋及び追加 池松 卓成 記す