<無形民俗文化財公開情報>

<名   称> 早馬祭(はやまさい)

<種   別> 小郡市指定無形民俗文化財

<公 開 日> 毎年11月第3日曜日

<公開場所> 横隈公民館(福岡県小郡市横隈、如意輪寺近く)、隼鷹(はやたか)神社及び横隈地区

<時   間>

12:00~ 神事(横隈公民館で)

12:30~ 宝満川へ禊に行く

13:00~ 隼鷹神社へ早馬を担いでお参り

13:30~ 横隈公民館で早馬のしめ縄を外し、地区廻りに出発

16:00~ 横隈公民館に帰り、早馬の解体が行われる

<駐 車 場> 横隈公民館駐車不可、隼鷹神社は駐車可能

 <ト イ レ> 横隈公民館は使用可能

<問合せ先> 小郡市文化財課  TEL 0942-55-7555
 
(注意)公開場所や日時は保存会の都合で変更になる場合があります 







   
<NIA取材記>


 早馬祭は、2011年11月20日の日曜日に本番撮影を行った。

この行事の広報は、主に小郡市の市報で行っておられる様子。

小郡市民でないものはネットに頼るしか術がない。そのネット広報も古いものが多いのには泣かされる。

当方のホームページの完成が渇望 されているのは必然かと使命の大きさを自覚した。

と、云うのは、公開時間が不明なので午前8時ごろ隼鷹神社に行ってみた。閑散として誰も いない。

神社は田畑で囲まれ、カラスの群れが畑に降り立ってしきりについばんでいる。

どうやら、神社の森をねぐらにしているらしい。 ときおり「カー」と鳴き声を上げる。

曇り空であったせいか薄暗い境内に反響して不気味であった。神社の撮影を開始した。

境内には「横隈早馬祭」の説明板があった。

昔は旧暦の12月11日であったが今は11月の第3日曜日に開催されている。

そして、早馬を11月の第2日曜日 に作るとある。

「しまった。どこにもそのことは書いていなかったぞ。」 来年それを撮影するしかないな。残念であった。

神社の撮影はすぐに終わった。何もすることがないので情報を得るため神社周辺を歩きまわった。

畑作業をしている70代の男性を見つけ いろいろと質問すいる。

この人も若いころは早馬祭に参加したとの事で、昔の盛んだったころのことを語っていただいた。

ところで、行事は横隈公民館が家元となっていて、そこで神事等の主要行事を行うとの事。

それではそこへ移動しなくてはと、神社を離れた。

横隈公民館での神事は正午から始まり、宝満川での禊、隼鷹神社でのお祓いの後、横隈公民館にもどる。

そこで早馬に付けられていた注連縄等を外し、二手に分かれての地区周りとなる。

11月の寒空の中、若衆は力水を浴びてブルブル震えながらも、家内安全、護国豊穣を祈り、

「よーい よい  よーい よい 祝うて三献 パチパチパチ 万歳」 といき盛んであった。

乙隈にも同様なものがあるらしいが、横隈の分が小郡市指定無形民俗文化財である。

                    2011.11.27 池松卓成  記す
  
 <早馬祭の内容説明>

早馬祭は、横隈隼鷹神社(毎年11月の第3日曜日公開)及び隼鷹神社より徒歩15分ぐらいの所にある乙隈天満神社(毎年10月17日公開)で行われている。

古老の話によると、この二者には何ら関係はないとの事である。横隈の場合は青年達がやるが、乙隈は子供達が主役である。

乙隈のそれを取材したことはないので真相はわからないが、古老はきっぱりと言い切った。

小郡市は横隈の早馬祭を市指定の無形民俗文化財(風俗慣習)に平成13年12月20日決定した。

さて、早馬祭の起源であるが、今から七、八百年前から行われてきたと伝えられ、無病息災・五穀豊穣を祈願する行事である。

小郡市教育委員会の古老の聞き語り調査には面白い記述がある。

「早馬はですね。おそらくあの天保の大飢饉(天保四年から7年間)から起こったんじゃないかと思います。

あの干ばつで牛馬は死ぬ、人間も病気で死ぬ。そのため早馬を作って平癒を願った。

その時の早馬というのは、今とは比較にならないほど小さいもので、 神社で三方に載せて祀り祈願していたのです。

小さかった早馬は自然と大きくなり、日清・日露戦争の戦勝の影響で青年達の意気が上がり、荒々しく盛大なもの になったんですよ。」 


天保の飢饉(1833年)は今から190年ほど昔であり、だいぶん起源との隔たりはあるが、祭りの成り立ちを考察するうえで貴重な意見である。

次に、早馬の制作について記述する。また横隈の古老の話、

「今は青年祭というが、昔は青年祭という言葉はなかったが、14歳・15歳、それこそ昔なら元服。

その歳になったら青年入りをしなくてはなら ない。14歳から25歳までの男子が旧暦12月16日(新暦ではⅠ月初旬)の前の日に、頭元の家に集まる。

そこで裸になり白い布切れを着て、宮司と共に宝満川 に禊に行く。

昔は彼岸土居の方へ行っていましたが、最近は鬼河原橋下のほうへ行っている。

そして、隼鷹神社でお祓いを受けて頭元の家に戻る。頭元の家には、座を持っている人の所から1反(300坪)分の藁が集まる。

早馬を作り始める前に宮司さんが来てお祓いをする。

芯と中芯と一番上の化粧の三段階に分かれるが 稲穂・男笹・大豆を中心に入れた芯を先ず作る。

その外側を均一に藁を重ね均等に5か所を縄で締める。この動作を全部で3回繰り返す。4回目は抜けないように 折り返しをいれ7か所を縄で締める。

その外周をさらに2回、5本締めする。通算7回目はきれいな藁を使って化粧締めをするが、縄は仮締めとし本締めをしない。

最後に、長でさ3尺3寸(1メートル)の円柱形の馬に、直径7cmほどのしめ縄を雌雄2体に7本づつ巻き、

おとこ結びにして結び目をそろえ、馬のたてがみを作る。 そのたてがみは雄の方が雌より長くして雌雄の区別をつけるとの事。

早馬の直径は1尺8寸(55センチ)、総重量70キロ程度になる。こうしてできた早馬は頭元の家 (今は横隈公民館)の座敷に飾られ、ここで祝詞があがる。

その後、家の玄関前に2体とも移され横に並んで据えられる。」 との事である。


以下は、横隈隼鷹神社の現在の早馬祭についての記述である。

これは、横隈隼鷹神社の例祭(旧暦12月16日、新暦ではⅠ月初旬)の行事であるが、祭りをささえる農村の人たちがサラリーマン化し、

日曜日でないと参加できないとの事で、数日の話し合いの結果11月第3日曜日とし、横隈地区を3班に分け3年に1度の当番制とした。

早馬の制作は11月第2日曜日に横隈公民館の駐車場で朝8時から夕方までかかって、雌雄二体の馬を稲藁で作る。その作成方法は昔と変わらない。

祭り当日、横隈公民館のステージ上には雌雄2体の早馬が飾られ、正午ごろから神事が始まる。終わると宝満川へ禊に行く。

11月の寒空の下、さすがに川に入る人は いない。

また古老の話。「馬を作る前と祭り当日に担ぐ前に鬼河原橋の下に禊に行く。今は担ぐ前だけ行くけど、昔は厳格だった。

元気者の内村さんは、川ん中にザンブ と入られるから、自分達も入らないわけにはいかなくなって、

ガタガタ震えながら川ん中に入って祝詞が終わるまで我慢した。」 と回想しながら笑う。

禊から公民館へ帰ると、馬を担いで隼鷹神社に参拝に行く。宮司は伴わない。

神殿に早馬ともども上がり込み、お参りと祝い言(「よーい よい  よーい よい 祝うて三献 パチパチパチ 万歳)をあ げる。

このとき、早馬を地面につかない。神社から公民館へ帰るとすぐに早馬の各7本のしめ縄が外される。

全部で14本のしめ縄は座元等に配布され、屋根等に上げられ 家の守りとする。

外され軽くなった早馬は、地区の上手と下手にわかれて廻る。昔は、下から上へは縁起が悪いと2体とも上から下へと廻ったそうである。

また古老の話 「今は玄関までだが、昔は家の中に入り込んだ。土間があって広かったからですね。

各家を廻りますけど、お酒や肴など振る舞いきれないところもあるので、表を開けてある所だけ入り込みました。

昔はどこでも早馬を入れ込みきれなかったそうです。御幣持ちという者がいて、その人の指示に従って早馬は動きます。

交通整理も行います。玄関に入り込むと、早馬に三献(酒)を飲ませます。

どの家でも、盃に一杯の酒、かまぼこ、ちくわ、ウインナー、唐揚げ、お菓子等が振る舞われるので

50軒も廻るころには、若人たちはかなりの酒を飲むことになります。

祝い言(「よーい よい  よーい よい 祝うて三献 パチパチパチ 万歳)を威勢よく、力水も浴びて震えながらやったものです。

昔は旧暦だったから、あたり一面の雪の原での早馬はとても寒かったです。」 との事。

 午後4時ごろ地区廻りを終えた早馬は横隈公民館に帰っ てくる。

そこで早馬は解体され、中芯に入れられている、男笹、稲穂、大豆は老若男女が奪い合って持ち去る。直会があって早馬祭は終わる。


<エピソード>

「昔はへこに晒しを巻いて、上だけは白法被の裸足だった。そして夜に行われていた。

その当時は家の前にドブがあって悪臭を放っていた。そのドブに 早馬をつけこんで面白半分に担ぐことも多かった。

明治から大正の初めごろの話です。ある時、おまわりさんを捕まえて酒の勢いでこのドブの中に入れ込んだそうだ。

お祭りだから止めろとは言わないが、昼間にするようにとのお達しがあり、それからは昼間にやるようになった。」と、ある古老は話してくれた。

                                池松卓成  記す 古老の話は方言だらけのため標準語で記述した